私の好きなことば

和敬清寂一期一会松樹千年翠本来無一物日々是好日

茶の湯の世界では、その精神を表す言葉が多くあります
これらの言葉は禅の世界に通じているようです
その中でも私の好きなことばを私なりの解釈で解説します
本来の正当な解釈とは少々違うといわれる部分もあろうとは思いますがご容赦願います



和敬清寂



"茶の湯の心"を表す言葉として広く知られています
村田珠光が足利義満の問いにお答えしたときに
「謹兮、敬兮、清兮、寂兮」と言いましたが
利休はこれを
「和敬清寂」としました
和と敬は主客の心得であり
清と寂は茶道全般にわたっての心持を表したものです

茶の湯にあたりまして、心穏やかで静かな心境を表しています
何事にも囚われない心は身辺のあらゆる事象にすばやく対応できるという
禅の世界で言う"無心"に通じるのではと思います


一期一会



「今日」に対する大きな意義を感じます
確実な時の流れの中で唯一度の出会いである「今日」という瞬間を大切にしたいという願いが込められています
今日の巡り会いや出会いを尊ぶだけではなく、時間や物との出会い、更には、今この瞬間の自分自身との出会いまでも大切にすることです
利休居士道歌の中に「何にても置きつけかえる手離れは恋しき人に別るると知れ」とあります

自分から離れる全て(人や道具、物)に対し、慈しみ(いつくしみ)の心を持って手を合わせることが「一期一会」の心です


松樹千年翠



松の木の翠(みどり)は千年の昔より変わることがありません
このことから長寿を祝うお目出度いことばですが
このことばの本来の意は
そうした自然の真実も、今ただ漫然と眺めていたのでは何も見えてきません
物事の真実を見極めることなく、表面的な現象のみを追いかけるようなことがあってはいけません
目に見えているはずのものが見えていない、聴こえているはずの音が聴こえていない・・・
このようなことは良くあることですね


本来無一物



神秀は「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむことなかれ」と
努力を怠ることなく、煩悩の塵を拭き去るようにしなければならぬと申しました
六祖慧能は「身は菩提樹に非ず、心は明鏡台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」
生身の人間は仏様ではないし、心とて澄み切ったものではないのです
まして本来何も持たずにこの世に誕生したのですから、煩悩の塵など降りかかりようがありません
これまで身にまとってきたものを捨て去り、何事にも囚われず、執着せず、只、今を生きる自分こそが真実であると申しました

人間の業とでも申しましょうか、生きること自体がいろいろなものを背負うことになります
ご自分で背負い込んだものにあまりにも執着しすぎるのはよろしくありませんね
生まれるときも死ぬときも身一つと考えれば心も軽やかになり、様々なストレス、プレッシャーから解放される思いです


日々是好日



人の都合に関係なく時は確実に流れています
「日」というのは時の流れの単位ですが、人の身勝手な?都合により良い日とか悪い日とか呼ばれてしまいます
私たちは兎にも角にも日々生きて行くわけですから、どうすれば来る日も来る日も人生最良の日だと感じることができるのでしょうか

人の心は際限なく広がる宇宙のようなものです
広大な心の宇宙には、108個の煩悩という惑星が浮かんでいます
広大な宇宙から見れば実にちっぽけな惑星なのですが、日々宇宙全体の覇権をもくろみ戦いが行われています
困ったことに宇宙全体の防衛システムが脆弱(ぜいじゃく)なために、このちっぽけな惑星に支配されがちなのです
これが"囚われ"とか"執着"とか言われる正体です

ちっぽけな惑星に心全体が支配されることなく、客観的に惑星の動きを観察できるようになれば
喜怒哀楽をそれぞれに愉しめることになります
そしてはじめて「日々是好日」が実感されるのではと思います




茶の湯の世界に入り、このような言葉と出会えましたことは
私に取りまして大変に有りがたく幸せに思います
茶の湯の世界に身をおく者として
まだまだ拙いながらも、お点前を通じて
少しでもその言葉の真実に近づきたいものだと
精進を重ねるばかりです

                
茶友会 えん 主宰 滝沢宗文  



時ならず客の来らば点前をば心は草にわざを慎しめ
千利休

 


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