茶の湯のはじまり

陸羽の茶経日本の歴史に見るお茶村田珠光一休武野紹鴎千利休




歴史上で文献上に"茶"という言葉が現れるのは中国唐時代(8世紀半ば)の陸羽の茶経です。
その中に「茶は南方の嘉木なり」と記されています
南方とは現中国の雲南省あたりを指し、嘉木とは役に立つ木の意味です
陸羽によれば、茶経の神話の中で茶の発見は紀元前2700年頃だと記されています
茶は倹徳のある、慎み深く徳を持った人の飲み物として一部の人が楽しんでいました
当時は団茶という丸く固めたお茶で、僧侶の間では覚醒効果のある薬として貴重品であったようです


日本の歴史にみるお茶
奈良時代 空海の本の中に"茶"という言葉があり、最澄が近江坂本の日吉神社に茶を植え、
延暦寺で供茶を行ったとされている。
815
嵯峨天皇 近江唐崎行幸のおり 僧永忠 より献茶を受ける。
この時代は、僧侶が禁裏で薬用、覚醒効果期待として飲用されていた。
平安時代 中国との国交が途絶え茶色のプーアール茶に似た団茶は敬遠され、
ミカンの皮などを煎じて清涼飲料水を楽しんでいた。
(現在のレモネードのようなもの)
鎌倉時代
1191
栄西禅師が宗の国から茶種を持ち帰り平戸に植える
1207
京都栂の尾(とがのお)・高山寺明恵上人に茶種を送りここに植えられる。本茶として現在でも催事が執り行われる。
この時代はバサラ大名(守護大名でありながら古い権威や習慣に捕われず,
奇天烈,派手で粗野な風情を好む)などによる闘茶がもてはやされた。
闘茶:何種類かのお茶を飲み、本茶である栂尾産の茶を当てる遊び
茶会なることばも出てくる。
茶寄り合い等の遊興的な趣向になっていった。
南北朝時代 足利尊氏、建武式目で連歌茶寄り合いを禁じる。
庶民の間でも簡単に茶が飲めるようになり「一服一銭」の立売り茶が出始める。
室町時代 足利義光 金閣寺建立
書院造りの茶室の出現

村田珠光 茶の湯に精神性を求める「茶とは遊に非ず芸に非ず、一味清浄、法喜禅悦の境地にあり」、
       わびちゃ創設
武野紹鴎 茶道は珠光にはじまり利休居士によって大成されたが、この二人をつなぐのが紹鴎、 
       侘びの理念を確立
戦国時代
1522
千利休 田中与四郎として出生、「侘び茶」を完成
織田信長 本能寺茶会の後明智光秀にうたれる。
安土桃山時代 豊臣秀吉、黄金の茶室建立 北野天満宮大茶会
天正19年2月28日 利休切腹
利休七哲

織田有楽斎 国宝茶室如庵建設
片桐石州 将軍家茶道師範となる
千宗旦 大徳寺にはいる
徳川時代 表千家・裏千家・武者小路千家の出現。
    宗旦の三男江岑宗左が不審庵を譲り受け「表千家」と称する
        四男仙叟宗室が閑雲亭、今日庵などを譲り受け「裏千家」と称する
        次男一翁宗守は京都武者小路に分家し「武者小路千家」と称する
小堀遠州 将軍家茶道師範となる
末期
井伊直弼(雅号:宗観) 「独座観」を確立する
 亭主は客を招いても万分の一も語れないものだ、だから客を見送った後で
 客の帰路を案じ、今日の一期一会が再び帰らぬことを観念し、独服し客を偲べ」
明治、大正、昭和、現代と茶は時代と共に様々な様相を呈して、禁裏、武士、町人、政財界、一般庶民の間で親しまれてきた。




茶の湯のはじまり資料編


栄西禅師(えいさいぜんじ)
日本臨済宗の開祖で鎌倉寿福寺・京都建仁寺を開山しました
二度宗(中国)に渡りましたが、二度目の帰国の際に茶種を持ちかえり、茶の栽培と喫茶の方法を伝えました

利休七哲(りきゅうしちてつ)
千利休の高弟七人を指します
古田織部・細川三斎・高山右近・蒲生氏郷・芝山監物・瀬田掃部・牧村兵部の7名です

織田有楽斎(うらく)
信長の弟で信長の死後出家して如庵有楽となり、秀吉の御伽衆となりました
有楽流茶道の祖です



片桐石州(せきしゅう)
大和小泉藩主で秀吉の下で勇名を馳せた片桐且元の甥です
小堀遠州を継いで将軍家茶道師範となりました
利休から道安、宗仙へと伝わった茶の湯を学び武家流茶道を完成しました
石州流茶道の祖



小堀遠州 (えんしゅう)
はじめは秀吉の弟秀長に仕えましたが秀長没後秀吉に仕えるようになり、後に徳川将軍家茶道師範となりました
武家茶道と公家的茶道の融合を図りました
古田織部の門下で遠州流茶道の祖

千宗旦(そうたん)
少庵の子で母は利休の娘婿です
生涯仕官せずに自由な境遇で茶の道に精進し。侘びに徹したため、乞食宗旦の異名があります





茶の湯の始まりは、僧侶であった村田珠光(1423〜1502)に始まるといわれています

 

村田珠光(むらたじゅこう)
       侘び茶の開祖といわれています
       奈良の出身で、僧侶でしたが後に京都で茶人として能阿弥(のうあみ)、一休などと親交がありました
       能阿弥から立花(たてはな)を学び、一休から禅の修業をうけて、侘び茶の精神を確立したといわれています
その後、歌道、禅を学んだ武野紹鴎(1502〜1555)が受け継ぎ、更に今日の茶道に大成したのが茶祖といわれる千利休(1522〜1591)です

 

武野紹鴎(たけのじょうおう)
       堺(大阪)豪商の出身で千利休の師です。
       珠光の侘び茶に傾倒し、その茶風を継承しより簡素化につとめたと言われます
       特に、茶杓については、それまでは中国伝来の象牙のものが使われていましたが、それを模して竹の素材を使い始めました
       侘び茶の精神を表すものとして、藤原定家の
       「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」を侘びの心としました

 


千利休
 武野紹鴎について珠光流を学び、侘び茶事を大成しました
 多くの門弟により継承され、また各流派に分派し、孫宗旦の三人の息子より家は分かれて「三千家」を派生しました





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